学部?研究科?附属病院の歴史

学部?研究科?附属病院の歴史

HOME > 学部?研究科?附属病院の歴史 > 研究科?附属病院の歴史 > 看護学部?看護学研究科 > 組織の変遷

看護学部?看護学研究科

組織の変遷

名古屋市民病院附属看護婦養成所 時代

 名古屋市民病院附属看護婦養成所は、現在の足球彩票病院の前身である名古屋市民病院が現在の名古屋市立博物館の地に昭和6年(1931)7月に開院したのに伴い設置された。
 昭和18年(1943)4月名古屋市民病院が、名古屋市立女子医学専門学校附属医院と改称されたことに伴い、同看護婦養成所は名古屋市立女子高等医学専門学校附属医院附属看護婦養成所と改称、さらに昭和19年(1944)4月、名古屋市立女子医学専門学校附属医院附属看護婦養成所と改称された。昭和19年(1944)には戦時特例により、同看護婦養成所の修業年限3年が1年に短縮されたが、昭和20年(1945)終戦により修業年限2年に改められた。昭和23年(1948)の「保健婦助産婦看護婦法」制定により、昭和24年(1949)4月に新設された名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校の設置をもって、いわゆる旧制度の看護婦養成所における教育19年間の歴史を閉じた。同看護婦養成所における第1~18回の卒業生総数は352名であった。