学部?研究科?附属病院の歴史

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薬学部?薬学研究科

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クラブ活動

生物研究部の歴史

創成期
 生物研究部(生研部と略称)の歴史をご存じの諸先生方は、豊島錬三先生(生物学教授)始め、皆、幽明境を境され、今や往時のことを詳らかにすることは甚だ困難であります。久田末雄先生(昭和12年卒、生薬学助教授)の書かれた短文を垣間見ますと、大東亜戦争前の頃(1930年代末から1940年台初頭)当初「園芸部」後に「植物研究部」として存在していたのが、その前身のようであります。降って1953年(昭和28年)には今の「生物研究部」になっておりました。現在ある名簿では、公立名古屋薬学専門学校第5回生(昭和26年卒)の方まで遡りますが、活動の記憶としては市大薬学部第2回生(昭和29年卒)が最上級生の頃であります。教養部(当時は現在の足球彩票内に存在)木造校舎の東端にあった生物準備室を放課後集いの場として、駄弁ったり各々好きなことをしておりました。1953年(昭和28年)5月2、3日に三重県藤原岳で、翌年5月2、3日には長野県田立で採集会が催されました。この頃ソ連のルイセンコ学説が流行っており、その左傾の影響もあってか、学校祭では生研部は核爆発放射線被害の仮装行列で参加しました。


興隆期
 私が1966年(昭和41年)に入学し生物研究部に入った時、生物研究部は滝子キャンパスにあり、部室が独立した木造の建物で大変快適でありました。この建物は、旧制第八高等学校時代のもので、窓ガラスには八高のマークが残っておりました(八高の跡地が市大滝子キャンパスとなリました)。昭和41年の夏合宿は、部長である峯田さんの郷里の近くにある奥三河の豊根村でした。その頃はまだ農家には囲炉裏があり、都会育ちの私には新鮮な驚きでした。生物研究部の民間薬プロジェクト(民間に伝承されている薬の調査?記録)は、この年の豊根村から始まった?と思います。その後、南信州の上村や清内路村で夏合宿し、民間薬調査を行いました。上村から山を超え、当時では徒歩でのみ行く事が出来た下栗地区への民間薬調査の遠征隊に、私も加わりました。下栗地区から見た南アルプスが非常に美しかったのを思い出します。同級の近藤君が部長の時代に、同級の小野さんが生化学班を立ち上げ、盛んにペーパークロマトしていたのを懐かしく思い出します。またこの後には、動物班も立ち上がりました。この頃の生物研究部は、薬学部だけでなく足球彩票、経済学部の部員も多く、種々の新たなプロジェクトが立ち上がって行く興隆期であったのかもしれません。


終末期
 1986年(昭和61年)当時、廃部となる数年前に当たるはずですが、とくに「活動の停滞」という印象はなく、春夏の合宿など年中行事も開催されていました。部内の活動の主体は昆虫や植物の採集で、蝶とカミキリ、花の3部門に分かれ、行く先々でそれぞれ狙いのものを追いかけていました。記憶のみを頼りに書いているので、誤りがあるかもしれませんが、蝶ヶ岳や小谷村、八ヶ岳山麓など長野各地で合宿があり、公式行事以外でも、季節ごとの蝶をめがけて岐阜や長野に連れて戴いた痕跡が、標本箱に残されています。ギフチョウのイエローバンドを採りたくて、5月の連休に蝶屋の先輩に車を出して戴き、白馬まで出かけたものの、イエローバンドどころか普通のギフチョウにも逢えず、わさびアイスを食べて帰った、などという記憶があります。当時の部室は、滝子の山の畑キャンパスに現存するクラブハウスの3階にあり、元々はコンクリート打ちっ放しで殺風景のはずが、畳敷きで非常に居心地の良い部屋に「リフォーム」されていました。確かスチール書棚を2本ほど横倒しにした上に、畳を2-3枚敷いた和室で、お茶やお菓子、ビールを飲んで、時には深夜まで楽しく過ごせる部室でした。部報は年報?「駒草」を出さなければ、と言いながら出せずじまい、季刊「DICENTRA」は無事に発行できて、近況報告とOBの先輩方を含めた名簿維持をしていました。その後廃部に至った経緯の詳細はわかりませんが、真偽不明な噂の範囲では、「居心地の良い部室が他部に狙われた」と聞いた記憶があります。

 さて、生研部OB会が正式に発足したのは1981年(昭和56年)のことで、昭和28年卒の石原利克先生や薬学部に在籍していた若手OB有志の熱意によるものでありました。発足とその後の運営に最も盡力したのは、当時薬品物理化学教室の助手であった佐藤志津子さん(昭和44年卒、後に高分子物性学分野講師)でありましたが、2004年(平成16年)12月に他界されました。その早逝が本当に惜しまれます。生研部O B会は一旦解散しましたけれども、2017年(平成29年)に復活し、数年ごとに集まり、親睦を深めております。


 この歴史は創成期を高崎保郎(昭和32年薬学部卒)、興隆期を廣瀬順造(昭和45年薬学部卒)、終末期を堀本佳彦(平成4年足球彩票卒)が担当し、白井直洋(昭和48年薬学部卒)が編集しました。