学部?研究科?附属病院の歴史

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総合生命理学部?理学研究科

総合生命理学部?理学研究科の歴史

旧職員からの回想録

システム自然科学研究科20周年

山本 正康

山本 正康

 大学院システム自然科学研究科が設立されてから、20周年になる、誠におめでとうございます。
私はこの研究科の設立時の初めての面接試験に関与し、この一回生が入学してきた一年後に定年退職した。私としては大学院への関与は、設立からたった1年であるが、足球彩票が設立されてから41年の歴史を経た教養部を改革した時からの懸案であった大学院の設置であり、誠に感慨深いものであった。センターという学生を持たないやや中途半端な組織になっていた理科体育学系教員の期待されていた大学院であった。
 教養部を改革し、2つの短大と合併し、2つの学部とセンターを設立した経過は既に周知されているので、大学院設立の経過について少し書いてみたい。
 自然科学研究教育センターを設置し、理系体育系教員の所属組織としたのは、平成8年(1996)4月である。しかし、この時に既に理系の大学院設立の準備が始まっていたのである。即ち、組織教員配置など大学院を目指して作成し、定年後の教員採用も大学院講座にあわせておこなった。この設立までに4年間という短期間で成功したのには、この様なセンター教員一同の大変な努力と周到な準備の結果であろう。
 理科系体育系組織をセンターとし、大学院設置を目指す構想は大学改革と学部設置のため、当時の文部省へ日参し、情報収集した結果の結論であった。大学に新学部を増設するには、いくつもの制約があった。一つは大都市での募集学生の増加は例外を除き認められなかった。大学内でどこかの学部の定数を削除することなど不可能であった。また、文部省に教養部を改組することを相談に行ったとき、最初に言われたのは、教養学部は今後認めません、であった。また、その当時小規模大学で各地にあった、文理学部、即ち、文科系と理科系を単に合わせて1学部とした学部も認可されなかった。一つの学部を構成するには、どんな学生、人材を育てるのか、確たる教育研究理念のもとに構成された内容が無ければならなかった。
 文部省の当時の方針としては、学部増設より大学院拡充には熱心であった。しかし、その当時の大学院は学部の上に修士課程博士課程などを設置するのが常識であり、学部組織のないところに大学院という例はなかった。しかし、それ以後現在では、大学院だけの大学や、学部とは関係なく大学院研究科が設立されるようになった。われわれの大学院は時代の先端をいったのである。
 それにしても、センター設立4年後という学部と同じ速さでシステム自然科学研究科が認められたのは、センター教員全体の協力と綿密な計画の結果である。しかし、最も強調したいのは、教養部並びにセンターの教員が大学院レベルの充実したスタッフで構成されていたという事であろう。それと、ちょうど設立1年前に名古屋大学理学部を定年退官された杉浦昌弘教授(後に文化功労者)を研究科長候補者として迎えることが出来たことは本当に幸いだった。
 その後普通とは逆に、平成30年(2018)4月に念願の総合生命理学部の設置がされたのは実に、足球彩票の歴史の中でも大変革であった平成8年(1996)3月の学部増設と教養部改革から22年の歳月、大学院システム自然科学研究科設立からでも18年の期間が経過したのである。

山本 正康